INVICTUS

少し前のことになるが、道重さゆみのラスト凱旋ライブが一段落したのを見計らったかのように、西日本で火球が流れたという。

季節はまさに秋。


星落秋風五丈原


星占において流星は多くが凶兆だが、これがそうとは思えない。
むしろ逆だろう。

天地が道重さゆみを嘉している。



かつて、自分は個人として、娘。のライブに足を運ぶことなど、とても考えられない時代があった。
理由は数多くあったのだが、その最たるものは、MC のうすら寒さである。
本で決められた台詞を、学芸会のような暗記丸出しの口調で暗誦する。


常に新メンバーがいるような時代において、確かに本は必要だった。
それを頭では理解していても、どうしても悪寒のようなものが背中を走るのを感じ、拒絶反応を抑えることができなかった。
ライブの DVD を観ても、MC の部分は飛ばす、という時代が、しばらく続いた。


だが、いつのころからか、抵抗がなくなった。
慣れた、ということもある。


それよりも大きな理由は、MC の内容が少しずつ変遷していったその裏側で、メンバーの個性が、人間的な厚みとして、MC に反映されていくことを認識できたからだ。

きまりきった挨拶や、定められた台詞を言うのに必要なのは、場馴れと如才なさだけだ。
だが、自分の思いを自分の言葉で伝えることができるようになるには、そのメンバーの“背景”が必要になる。


自分の思い、他のメンバーとの有機的なやりとり、会場の空気、それらのものを網羅し、自在に言葉として紡ぎ出す。
その裏打ちとして、経験が、もっと言えば“失敗”が、彼女たちを育てる。
頭がいいだけなら、発する言葉に澱みがなくとも説得力はない。
自分の思いだけを主張するだけなら、周りの空気を巻き取ることはできない。


台詞を暗記し、言い間違え、練習し、暗誦には成功するも自分の思いを伝えられず、後悔し、横に並ぶメンバーの言葉や様子をうかがい、必死で伝える。
でもやっぱり失敗し、挫け、それでもなお立ちあがる。


現在のメンバーの、現場レポートから伝え聞く MC や、ブログの言葉に有機性を感じるのは、決して錯覚ではない。
何度も挫折し、人知れず血のような涙を流してはじめて、その人に“背景”ができる。
売り上げも世間の認知度も、全盛期とは程遠いかもしれないが、背景を得た彼女たちは確実に、あのころのメンバーよりも勁い。


つい最近、BSプレミアムかなにかで 「インビクタス」が放映されていた。

劇中、モーガン・フリーマン演じるネルソン・マンデラが、William Ernest Henley の詩 「INVICTUS」 を引用する。

この詩は、若くして結核に冒され、足を失うといった過酷な運命に翻弄された William Ernest Henley の代表作で、逆境に斃れることを良しとしない不屈の精神を謳ったものであり、また病魔と闘う艱難に満ちた「生」における自らの杖とした作品だ。



 わたしを覆う漆黒の夜
 鉄格子にひそむ奈落の闇
 わたしはあらゆる神に感謝する
 我が魂が征服されぬことを


 無惨な状況においてさえ
 わたしはひるみも叫びもしなかった
 運命に打ちのめされ
 血を流しても
 決して屈服はしない


 激しい怒りと涙の彼方に
 恐ろしい死が浮かび上がる
 だが、長きにわたる脅しを受けてなお
 わたしは何ひとつ恐れはしない


 門がいかに狭かろうと
 いかなる罰に苦しめられようと
 わたしが我が運命の支配者
 わたしが我が魂の指揮官なのだ


 Out of the night that covers me,
 Black as the Pit from pole to pole,
 I thank whatever gods may be
 For my unconquerable soul.


 In the fell clutch of circumstance
 I have not winced nor cried aloud.
 Under the bludgeonings of chance
 My head is bloody, but unbowed.


 Beyond this place of wrath and tears
 Looms but the Horror of the shade,
 And yet the menace of the years
 Finds, and shall find, me unafraid.


 It matters not how strait the gate,
 How charged with punishments the scroll.
 I am the master of my fate:
 I am the captain of my soul.




この詩を詠むとき、自分はほとんど本能的に道重さゆみのことを思い出す。
そして残されるメンバーのことを思い出す。


珠玉の詩に、無粋にも 1 行を加えるとこのような感じだろうか。


 I am the master of my fate:
 I am the captain of my soul
 And of my Morning Musume。


 わたしが 我が運命の支配者
 わたしが 我が魂の
 そして 我がモーニング娘。の指揮官なのだ


これは、道重さゆみが指揮官=リーダーであることを詠うものではない。


ここで言う「我がモーニング娘。」とは、メンバーそれぞれが持っている、誰にも冒されることのない “内なるモーニング娘。”である。


歴代メンバーの中でも、とりわけ、不遇の時代をくぐりぬけてきた道重さゆみのこれまでを俯瞰するとき、他のどのメンバーよりも強く濃く、彼女だけの“内なるモーニング娘。”の存在を感じることができる。


そして、自らがそれを信じている限り、彼女は“運命の支配者”たりえるのである。


興味深く、そして頼もしいことに、残されるメンバーそれぞれの中にもまた、「我がモーニング娘。」が萌芽し形成されるのを感じることができる。
その姿や魂が、それぞれに異なる方向を見ていたとしても、それは問題ではない。


内なる我がモーニング娘。とは、与えられて得るものではない。


紡ぎ出す言葉に顕れるように、彼女たちが何度も失敗し、幾度も倒れて、なお起き上がった末に、ようやくつかむことができる何かである。


アップフロントのアイドルである限り、彼女たちは自分を思うようにプロデュースすることはできない。
それは大きな壁であり、乗り越えることができない山塊のようだ。


その制限に安住するのであれば、いつまでたっても自らの内なるモーニング娘。を確立することはできない。



だが、道重さゆみはその頸木の中で、できうる限りの可能性を模索し続け、闘い続けた。


その後につかみ取った彼女の内なるモーニング娘。が、嵐の中においても屹立し、揺るぎないものであるがゆえに、道重さゆみの言葉には “力” や “魂” が宿るのである。


やがて来たる困難と闘い、それに克つことができるのは、現在進行形のモーニング娘。自身以外にはいない。


近い将来に訪れる難しい闘いも、かつて困難に立ち向かいそれを切り拓いてみせた見事な道のりも、どちらも道重さゆみの遺産である。


それを活かすことができるのか、否か。


大いなる期待を込めながら、自分はこれからも傍観していくことになるだろう。




世界の遠くから、負けざる モーニング娘。たちの、果てなき栄光を祈っております。