語るべき言葉を失いし者の軽々しい更新

瞬きのうちに時が過ぎ
ガッタスがほろび
体温計の測定完了の音が鳴り
吉澤ひとみがとつぎーの
海にかかる狭霧に橋桁が溶け
道重さゆみは隠れ沈まり
最後に見て幾月が過ぎ
鞘師里保が娘。を辞めると言う


何もかも、傍観者には夢幻のごとく 疾くはやく。




モーニング娘。15は鞘師里保を中心にまわっていたのだろうか。

ある意味でそれはYesで、ある意味ではNoだ。

って、なんという陳腐な答えだろうか。自分で書いていて笑ってしまうわ。



A○Bグループが握手券方式を導入したことにより、オリコンのヒットチャートやミリオンの意義は根底から破壊された。いまや、A○Bがどんなにミリオンを連発しようと、その曲が他のミリオンヒットのように巷間の記憶に残ることはほとんどない。もちろん愛される名曲はいくつもあるし、そういった曲とともに、A○Bが歌謡史に長く残る存在であることは間違いない。それは前人未到の「偉業」でもある。


一方、モーニング娘。はその大波に翻弄されながらも、一部の業界人をはじめ根強いファンの応援に支えられ、(見方によっては)常にこれまでの自分たちを更新していくかのような独自の光芒を見せ続けている。

ファンはフォーメーションダンスに喝采をおくり、生の歌声を堪能し、来し方を振り向いては歴史を見晴るかす。

現在のモーニング娘。ファンの矜持とは、モーニング娘。自身の歴史(関係性)とテクニカルスキルに拠っている。モーニング娘。の多くのファンは、この2つの分野において、モーニング娘。がアイドル界の最先端を行くグループ(のひとつ)であることに確信を持っているのだ。

そして、この部分に依拠する場合、CDの売り上げ枚数は、表面的な順位のチャートの奥で相対化され、意味を持たなくなる。現場が至上となり、やがて在宅ファン=自分はゆるやかに滅びを迎えることになる。



おそらく。

ライブにおけるこのテクニカルスキルの多くの部分を、鞘師里保は背負ってきた。言わずもがなのことではあるが、それは歌であり、ダンスである。モーニング娘。のファンは、鞘師里保をその象徴として見てきたのだ。

彼女にとって、その状況が重圧であったかどうかは、傍観者=自分にはわからない。

ただ、Post 道重さゆみ時代において、さらには道重リーダー時代を含めても、振り返ってみて何より個人的に心を奪われた一瞬は、鞘師里保をある意味での中心軸としながら、各メンバーにつながれていく目に見えない「線」を「見た」一瞬だった。



残念ながら、自分は、かつてのような熱量をもって現在のモーニング娘。を見てはいない。道重さゆみの卒業ライブのBDこそ購入して手元にあるが、開封はしたものの、再生はしていない。だから、手前の中の「モーニング娘。時間」はそこで止まったままである。

(永遠の「さゆロス」はある意味で怠惰にも似た耽美に満ちている。)

だが、現役のモーニング娘。がテレビに出れば、せっせと録画をして見るし、そこで褒められたり、活躍したりしていれば、本当にうれしく思うのも事実だ。


その限られた露出の中で、ライブの様子を見たり、MVを鑑賞したりしたほんの一瞬に、鞘師里保から放たれる見えない線が、他のメンバーに絡めとられる瞬間を見て、自分は息をのんだことを記憶している。


その一人が、(つまりもっとわかりやすかったのが)石田亜佑美で、多分、「愛の軍団」のMVか、スタジオライブでのことであった。(ちなみに自分はその体験以来、愛の軍団をモーニング娘。の全楽曲中最も好んで聴いている。)


当時のモーニング娘。の中心には 圧倒的な美を持つ ‟Great SAYU”(偉大なる道重さゆみ)が屹立していて、当初はその姿ばかりを追いかけていた。道重さゆみを見ることは一種の癒しだったのである。

だが、歌にダンスに、それこそ八面六臂の活躍を見せるのは、当時すでに不動のエースであった鞘師里保であり、「愛の軍団」のキャッチー(でちょっとダサめ)な曲調や振付とも相俟って、はじめは道重さゆみのみに絞られていたフォーカスは、やがてMVに出てくるメンバー全体に向けて、緩やかに開放されていった。


多分、鞘師里保ひとりが、歌にダンスに圧倒的な力量を誇示していたとしたら、自分の視線は、意識もせずに再び道重さゆみひとりへと収斂していっただろう。


だが鞘師が画角から外れたその瞬間、そのダンスをさらに凌駕するようなキレで踊るメンバーがいた。



それが石田亜佑美であった。

同じように歌では小田さくらが。



一度見えない線が見えると、それはあたかも真っ白な絹の繭糸のようにメンバー同士を有機的につなぎはじめる。

ダンスの一瞬、リップシンクの一瞬、アップで映る画面にいるメンバーは1人か2人だ。だが、その背後にはモーニング娘。全員がいて、その全員が集中して、一瞬の振りに、立ち位置に、全身全霊を込めている。

あるフットボール映画の1シーンを借りるならば、彼女たちはただひたすら前を見続け、ダンスのさなかに誰かにぶつかることを、つまり失敗することを恐れない。なぜならメンバーの全員がその一瞬に向けて、力の限り努力していることを知っているから。知っているからこそ、自分の横にいるメンバーを信頼できるのだ。知っているからこそ、彼女たちは「モーニング娘。」なのである。


鞘師がはけると石田がいること。鞘師が歌うと小田がそれに続くこと。圧倒的な重厚感。重層感、そして無敵感。

モーニング娘。15 の中心は鞘師里保であった。だがその中心もまた、別のメンバーの引力の影響下にあったのだ。引かれ合い弾き合い、近づいては遠ざかる。だが結局はいつでもそばにメンバーがいるのだ。


だから、多分これは、鞘師里保ひとりがいくら頑張っても出せない感覚であり印象だったろうと思う。

メンバーの間を縦横につながる細い糸を夢想しながら、大したもんだと独り言ちながら、ロキソニンを一錠放り込んだのは一体いつの夜だったか。




Great SAYU がいなくなっても、モーニング娘。が今いるように、The ONE 鞘師里保がいなくなっても、モーニング娘。はいる。


鞘師から放たれ、鞘師につながっていた見えない糸は、この大みそかに一度断たれる。

だが、断たれた糸は中空を漂い、他のメンバーや新しいメンバーを見つけ、迎えて、きっとまた優しく勁くつながるに相違ないわけで。そのために、何度も失敗し、何度も挫折し、汗と涙を流しながら、鞘師里保の影を追いかけるのです。いつか追いつき追い越すために。


だから今は、存分に惜しみ、嘆き、悲しめばよいのだよ。
メンバーもファンも。


そのかなしみもまた「モーニング娘。」なり。







そうなんです、ちょっと仕事の関係で、久々に 『Matrix』 を見返したのです。


主人公の ネオ は道重さゆみだと思っていましたが、違ったようです。
道重さゆみは ネオ を確信に導く モーフィアス (Great Morpheus)でありました。

そして The ONE (選ばれし者もしくは救世主) である ネオ は 鞘師里保であったようです。

今ごろ山口の片田舎で、Great SAYU はこう言ってるのではないでしょうか。



「She's beginning to believe (in herself). 」

(彼女は自分を信じはじめたんだ。)




夢は誰かに言うものでもないだろうけれども、時間だけはあっという間に過ぎます。

瞬きのうちに、確実に。

どうか彼女だけの機会を逃さずにつかみますように、と。







久しぶりなのに何ともしまらない更新で申し訳ないことでございます。