お仕舞い

今日でお仕舞いです。
こころが死にました。


もちろん、これ以外に方途はありませんでした。


今はただもう、どんな時も希望と記憶を捨てずに生き抜いてくれることを信じます。
楽しい思い出も眩いばかりに輝かしい記憶も、辛いことも目を背けたいことも、
全てを胸のうちに、生きて。

四代目

あなたは自らの手であなたの築き上げた栄光を消し去った。

これからはじまる昏い道行きで、はじめてその光の眩さに気付き、来し方を振り返る。

でももう遅いのだ。



愚かなことを。愚かなことを。


『神の御力をしても、過去をなかったことにはできぬ。』
(アガトーン)

語るべき言葉を失いし者の軽々しい更新

瞬きのうちに時が過ぎ
ガッタスがほろび
体温計の測定完了の音が鳴り
吉澤ひとみがとつぎーの
海にかかる狭霧に橋桁が溶け
道重さゆみは隠れ沈まり
最後に見て幾月が過ぎ
鞘師里保が娘。を辞めると言う


何もかも、傍観者には夢幻のごとく 疾くはやく。




モーニング娘。15は鞘師里保を中心にまわっていたのだろうか。

ある意味でそれはYesで、ある意味ではNoだ。

って、なんという陳腐な答えだろうか。自分で書いていて笑ってしまうわ。



A○Bグループが握手券方式を導入したことにより、オリコンのヒットチャートやミリオンの意義は根底から破壊された。いまや、A○Bがどんなにミリオンを連発しようと、その曲が他のミリオンヒットのように巷間の記憶に残ることはほとんどない。もちろん愛される名曲はいくつもあるし、そういった曲とともに、A○Bが歌謡史に長く残る存在であることは間違いない。それは前人未到の「偉業」でもある。


一方、モーニング娘。はその大波に翻弄されながらも、一部の業界人をはじめ根強いファンの応援に支えられ、(見方によっては)常にこれまでの自分たちを更新していくかのような独自の光芒を見せ続けている。

ファンはフォーメーションダンスに喝采をおくり、生の歌声を堪能し、来し方を振り向いては歴史を見晴るかす。

現在のモーニング娘。ファンの矜持とは、モーニング娘。自身の歴史(関係性)とテクニカルスキルに拠っている。モーニング娘。の多くのファンは、この2つの分野において、モーニング娘。がアイドル界の最先端を行くグループ(のひとつ)であることに確信を持っているのだ。

そして、この部分に依拠する場合、CDの売り上げ枚数は、表面的な順位のチャートの奥で相対化され、意味を持たなくなる。現場が至上となり、やがて在宅ファン=自分はゆるやかに滅びを迎えることになる。



おそらく。

ライブにおけるこのテクニカルスキルの多くの部分を、鞘師里保は背負ってきた。言わずもがなのことではあるが、それは歌であり、ダンスである。モーニング娘。のファンは、鞘師里保をその象徴として見てきたのだ。

彼女にとって、その状況が重圧であったかどうかは、傍観者=自分にはわからない。

ただ、Post 道重さゆみ時代において、さらには道重リーダー時代を含めても、振り返ってみて何より個人的に心を奪われた一瞬は、鞘師里保をある意味での中心軸としながら、各メンバーにつながれていく目に見えない「線」を「見た」一瞬だった。



残念ながら、自分は、かつてのような熱量をもって現在のモーニング娘。を見てはいない。道重さゆみの卒業ライブのBDこそ購入して手元にあるが、開封はしたものの、再生はしていない。だから、手前の中の「モーニング娘。時間」はそこで止まったままである。

(永遠の「さゆロス」はある意味で怠惰にも似た耽美に満ちている。)

だが、現役のモーニング娘。がテレビに出れば、せっせと録画をして見るし、そこで褒められたり、活躍したりしていれば、本当にうれしく思うのも事実だ。


その限られた露出の中で、ライブの様子を見たり、MVを鑑賞したりしたほんの一瞬に、鞘師里保から放たれる見えない線が、他のメンバーに絡めとられる瞬間を見て、自分は息をのんだことを記憶している。


その一人が、(つまりもっとわかりやすかったのが)石田亜佑美で、多分、「愛の軍団」のMVか、スタジオライブでのことであった。(ちなみに自分はその体験以来、愛の軍団をモーニング娘。の全楽曲中最も好んで聴いている。)


当時のモーニング娘。の中心には 圧倒的な美を持つ ‟Great SAYU”(偉大なる道重さゆみ)が屹立していて、当初はその姿ばかりを追いかけていた。道重さゆみを見ることは一種の癒しだったのである。

だが、歌にダンスに、それこそ八面六臂の活躍を見せるのは、当時すでに不動のエースであった鞘師里保であり、「愛の軍団」のキャッチー(でちょっとダサめ)な曲調や振付とも相俟って、はじめは道重さゆみのみに絞られていたフォーカスは、やがてMVに出てくるメンバー全体に向けて、緩やかに開放されていった。


多分、鞘師里保ひとりが、歌にダンスに圧倒的な力量を誇示していたとしたら、自分の視線は、意識もせずに再び道重さゆみひとりへと収斂していっただろう。


だが鞘師が画角から外れたその瞬間、そのダンスをさらに凌駕するようなキレで踊るメンバーがいた。



それが石田亜佑美であった。

同じように歌では小田さくらが。



一度見えない線が見えると、それはあたかも真っ白な絹の繭糸のようにメンバー同士を有機的につなぎはじめる。

ダンスの一瞬、リップシンクの一瞬、アップで映る画面にいるメンバーは1人か2人だ。だが、その背後にはモーニング娘。全員がいて、その全員が集中して、一瞬の振りに、立ち位置に、全身全霊を込めている。

あるフットボール映画の1シーンを借りるならば、彼女たちはただひたすら前を見続け、ダンスのさなかに誰かにぶつかることを、つまり失敗することを恐れない。なぜならメンバーの全員がその一瞬に向けて、力の限り努力していることを知っているから。知っているからこそ、自分の横にいるメンバーを信頼できるのだ。知っているからこそ、彼女たちは「モーニング娘。」なのである。


鞘師がはけると石田がいること。鞘師が歌うと小田がそれに続くこと。圧倒的な重厚感。重層感、そして無敵感。

モーニング娘。15 の中心は鞘師里保であった。だがその中心もまた、別のメンバーの引力の影響下にあったのだ。引かれ合い弾き合い、近づいては遠ざかる。だが結局はいつでもそばにメンバーがいるのだ。


だから、多分これは、鞘師里保ひとりがいくら頑張っても出せない感覚であり印象だったろうと思う。

メンバーの間を縦横につながる細い糸を夢想しながら、大したもんだと独り言ちながら、ロキソニンを一錠放り込んだのは一体いつの夜だったか。




Great SAYU がいなくなっても、モーニング娘。が今いるように、The ONE 鞘師里保がいなくなっても、モーニング娘。はいる。


鞘師から放たれ、鞘師につながっていた見えない糸は、この大みそかに一度断たれる。

だが、断たれた糸は中空を漂い、他のメンバーや新しいメンバーを見つけ、迎えて、きっとまた優しく勁くつながるに相違ないわけで。そのために、何度も失敗し、何度も挫折し、汗と涙を流しながら、鞘師里保の影を追いかけるのです。いつか追いつき追い越すために。


だから今は、存分に惜しみ、嘆き、悲しめばよいのだよ。
メンバーもファンも。


そのかなしみもまた「モーニング娘。」なり。







そうなんです、ちょっと仕事の関係で、久々に 『Matrix』 を見返したのです。


主人公の ネオ は道重さゆみだと思っていましたが、違ったようです。
道重さゆみは ネオ を確信に導く モーフィアス (Great Morpheus)でありました。

そして The ONE (選ばれし者もしくは救世主) である ネオ は 鞘師里保であったようです。

今ごろ山口の片田舎で、Great SAYU はこう言ってるのではないでしょうか。



「She's beginning to believe (in herself). 」

(彼女は自分を信じはじめたんだ。)




夢は誰かに言うものでもないだろうけれども、時間だけはあっという間に過ぎます。

瞬きのうちに、確実に。

どうか彼女だけの機会を逃さずにつかみますように、と。







久しぶりなのに何ともしまらない更新で申し訳ないことでございます。

INVICTUS

少し前のことになるが、道重さゆみのラスト凱旋ライブが一段落したのを見計らったかのように、西日本で火球が流れたという。

季節はまさに秋。


星落秋風五丈原


星占において流星は多くが凶兆だが、これがそうとは思えない。
むしろ逆だろう。

天地が道重さゆみを嘉している。



かつて、自分は個人として、娘。のライブに足を運ぶことなど、とても考えられない時代があった。
理由は数多くあったのだが、その最たるものは、MC のうすら寒さである。
本で決められた台詞を、学芸会のような暗記丸出しの口調で暗誦する。


常に新メンバーがいるような時代において、確かに本は必要だった。
それを頭では理解していても、どうしても悪寒のようなものが背中を走るのを感じ、拒絶反応を抑えることができなかった。
ライブの DVD を観ても、MC の部分は飛ばす、という時代が、しばらく続いた。


だが、いつのころからか、抵抗がなくなった。
慣れた、ということもある。


それよりも大きな理由は、MC の内容が少しずつ変遷していったその裏側で、メンバーの個性が、人間的な厚みとして、MC に反映されていくことを認識できたからだ。

きまりきった挨拶や、定められた台詞を言うのに必要なのは、場馴れと如才なさだけだ。
だが、自分の思いを自分の言葉で伝えることができるようになるには、そのメンバーの“背景”が必要になる。


自分の思い、他のメンバーとの有機的なやりとり、会場の空気、それらのものを網羅し、自在に言葉として紡ぎ出す。
その裏打ちとして、経験が、もっと言えば“失敗”が、彼女たちを育てる。
頭がいいだけなら、発する言葉に澱みがなくとも説得力はない。
自分の思いだけを主張するだけなら、周りの空気を巻き取ることはできない。


台詞を暗記し、言い間違え、練習し、暗誦には成功するも自分の思いを伝えられず、後悔し、横に並ぶメンバーの言葉や様子をうかがい、必死で伝える。
でもやっぱり失敗し、挫け、それでもなお立ちあがる。


現在のメンバーの、現場レポートから伝え聞く MC や、ブログの言葉に有機性を感じるのは、決して錯覚ではない。
何度も挫折し、人知れず血のような涙を流してはじめて、その人に“背景”ができる。
売り上げも世間の認知度も、全盛期とは程遠いかもしれないが、背景を得た彼女たちは確実に、あのころのメンバーよりも勁い。


つい最近、BSプレミアムかなにかで 「インビクタス」が放映されていた。

劇中、モーガン・フリーマン演じるネルソン・マンデラが、William Ernest Henley の詩 「INVICTUS」 を引用する。

この詩は、若くして結核に冒され、足を失うといった過酷な運命に翻弄された William Ernest Henley の代表作で、逆境に斃れることを良しとしない不屈の精神を謳ったものであり、また病魔と闘う艱難に満ちた「生」における自らの杖とした作品だ。



 わたしを覆う漆黒の夜
 鉄格子にひそむ奈落の闇
 わたしはあらゆる神に感謝する
 我が魂が征服されぬことを


 無惨な状況においてさえ
 わたしはひるみも叫びもしなかった
 運命に打ちのめされ
 血を流しても
 決して屈服はしない


 激しい怒りと涙の彼方に
 恐ろしい死が浮かび上がる
 だが、長きにわたる脅しを受けてなお
 わたしは何ひとつ恐れはしない


 門がいかに狭かろうと
 いかなる罰に苦しめられようと
 わたしが我が運命の支配者
 わたしが我が魂の指揮官なのだ


 Out of the night that covers me,
 Black as the Pit from pole to pole,
 I thank whatever gods may be
 For my unconquerable soul.


 In the fell clutch of circumstance
 I have not winced nor cried aloud.
 Under the bludgeonings of chance
 My head is bloody, but unbowed.


 Beyond this place of wrath and tears
 Looms but the Horror of the shade,
 And yet the menace of the years
 Finds, and shall find, me unafraid.


 It matters not how strait the gate,
 How charged with punishments the scroll.
 I am the master of my fate:
 I am the captain of my soul.




この詩を詠むとき、自分はほとんど本能的に道重さゆみのことを思い出す。
そして残されるメンバーのことを思い出す。


珠玉の詩に、無粋にも 1 行を加えるとこのような感じだろうか。


 I am the master of my fate:
 I am the captain of my soul
 And of my Morning Musume。


 わたしが 我が運命の支配者
 わたしが 我が魂の
 そして 我がモーニング娘。の指揮官なのだ


これは、道重さゆみが指揮官=リーダーであることを詠うものではない。


ここで言う「我がモーニング娘。」とは、メンバーそれぞれが持っている、誰にも冒されることのない “内なるモーニング娘。”である。


歴代メンバーの中でも、とりわけ、不遇の時代をくぐりぬけてきた道重さゆみのこれまでを俯瞰するとき、他のどのメンバーよりも強く濃く、彼女だけの“内なるモーニング娘。”の存在を感じることができる。


そして、自らがそれを信じている限り、彼女は“運命の支配者”たりえるのである。


興味深く、そして頼もしいことに、残されるメンバーそれぞれの中にもまた、「我がモーニング娘。」が萌芽し形成されるのを感じることができる。
その姿や魂が、それぞれに異なる方向を見ていたとしても、それは問題ではない。


内なる我がモーニング娘。とは、与えられて得るものではない。


紡ぎ出す言葉に顕れるように、彼女たちが何度も失敗し、幾度も倒れて、なお起き上がった末に、ようやくつかむことができる何かである。


アップフロントのアイドルである限り、彼女たちは自分を思うようにプロデュースすることはできない。
それは大きな壁であり、乗り越えることができない山塊のようだ。


その制限に安住するのであれば、いつまでたっても自らの内なるモーニング娘。を確立することはできない。



だが、道重さゆみはその頸木の中で、できうる限りの可能性を模索し続け、闘い続けた。


その後につかみ取った彼女の内なるモーニング娘。が、嵐の中においても屹立し、揺るぎないものであるがゆえに、道重さゆみの言葉には “力” や “魂” が宿るのである。


やがて来たる困難と闘い、それに克つことができるのは、現在進行形のモーニング娘。自身以外にはいない。


近い将来に訪れる難しい闘いも、かつて困難に立ち向かいそれを切り拓いてみせた見事な道のりも、どちらも道重さゆみの遺産である。


それを活かすことができるのか、否か。


大いなる期待を込めながら、自分はこれからも傍観していくことになるだろう。




世界の遠くから、負けざる モーニング娘。たちの、果てなき栄光を祈っております。

Ave Maria

時代が変われば、娘。のメンバーも変わり、それを見つめるファンも少しずつ変遷し、変位する。


自分が知っている限り、いま現在、もっとも濃密なモーニング娘。評を紡いでくれるサイトがあり、自分はその更新をとても楽しみにしているのだが、その執筆者の方が、このサイト?についてツイートされていた内容を読み、誤解を与えたかもしれないと反省をした。今回は、ために、少しばかり補足をしておきたい。



自分は吉澤ひとみのファンである。

かつてファンであり、そして将来もファンであり続けるだろう。ゆえに、吉澤ひとみが在籍していたころのモーニング娘。を愛惜するものであり、吉澤がリーダーであった時代を誇りに思うものである。

だがリーダーとしての存在の強さ、素晴らしさといった面を俯瞰的総合的に見れば、初代リーダー中澤裕子をふくめ、歴代の錚々たるメンツの中でも、道重さゆみをもっとも評価するものである。

……なんてことを筆の勢いに任せて書くと、何やら上から目線のようになってしまうが、道重さゆみは、かねてより自分が、娘。のリーダーたる者に具えてほしい 「姿勢」 を完璧に有している唯一無二の存在であることは間違いない。


その姿勢とは、「褒められるときは、いちばん後ろで。批判されるときは、いちばん前で」 ということだ。


実は口下手な吉澤ひとみは、リーダー時代に口頭で注意するよりもまずは行動で示したという。結果、メンバーは上から管理される立場から解き放たれ、自律を身につける必要が生じた。ゆえに、それは強い個性の萌芽の時代であり、ある意味での人間復興(ルネサンス)であり、良い意味での無政府主義の時代だった。


だが、この世界には、言葉にすることでようやく伝えることができるものが、確かにあるのだ。


道重さゆみは全てのモーニング娘。の中でもっとも多くのリーダーに師事し、その果てに自らもリーダーとなった。

今の彼女は、歴代のリーダーの良いところを摘み取ったかのようだ。吉澤ひとみのように背中で語り、飯田圭織のように言葉で伝える。パトスとロゴス、そしてその外見的な美しさにも由来するエートスを併せ持っている。

人はそれをカリスマと呼んできた。


つまり、リーダーとして、道重さゆみは、既に、吉澤ひとみをはるかに凌駕しているのである。



旅立ちを見送るメンバーたちは、わずかに残されたばかりの道重との時間を惜しんでいることだろう。

だが、彼女が娘。を去ってからしばらくの時間が経過し、そこではじめて、失われたものの本当の大きさに、ようやく気がつく。


後漢書王覇伝に曰く 『疾風に勁草を知る』。


そこからまた、新しい闘いがはじまるのだ。

これまでのモーニング娘。におけるすべての世代において、その時代の少女たちが、それぞれの困難に立ち向かわなければならなかったのと同じく。


かつて自分が営んでいたサイトのネーミングは、その闘いに由来する。

モーニング娘。であることは、闘うことである。
モーニング娘。とは、すなわち 武闘 である。




……つい話がそれてしまいました。

ということで、いや、というか何だかんだで、現在の自分は道重さゆみの喪失に、戦々兢々とする毎日なのであります。

ただ、道重以外の、現在のメンバーの名前を並べるだけでも笑みが浮かんでしまうのも事実であり、あのメンバーなら何かやってくれそうな気がするのです。

映画 『トロイ』 におけるアキレスの槍衾や、同じく映画 『300』 におけるスパルタ・ファランクスの密集陣形や、『TIKI BUN』 のスクラム?フォーメーションのように、他のメンバーを助け護ることが、自分を仗け守ることにつながるような、熱い闘いを、きっと。