陽炎の記 4

ある日の夕方、泉の西にある山の上に砂埃が巻き上がった。
それは大抵の場合、悪い予兆だった。

ミドルレンジの人々が予想したとおり、
次の日の夜明け空に爆音が轟き、
無数のパラシュートが薄い色の空に模様を作った。

「来たか」
石で組まれた柱に布を張っただけの仮住まいから飛び出した裕子は
パラシュートの色が朝日よりも赤いことを確認すると、思わず全身が殺気走るのを感じた。

ラウマ…

母親を殺したラウマがまたここに来た。
アドレナリンの匂いがこもる奥歯を噛みしめると
緑白の虹彩に浮かぶ黒い瞳がクッと収縮した。





泉の西の山を人々は「御山」と呼んでいた。
その向こうに巻き起こった砂煙のもとを確かめるべく
裕子の娘たちの多くは偵察に出ていた。

ここに残っているのは裕子の他には、銃器係の圭とひとみ、
そしてまだ子供のアイとノノだけだった。

パラシュート部隊は泉の東に降下しているようだった。
一部の人間は裕子の娘たちを追うように斥候に出かけたが、
どんな時も油断しなくなったミドルレンジの戦力はまだ大部分が残っていた。

裕子がこのミドルレンジの部隊を率いているのではなかった。
彼女はこの地に無数に生まれたゲリラグループのうちの一つに過ぎず、
しかも女子供だけであったことから、
レジスタンスと呼ばれる共同戦線を他のグループと組むこともできないために、
彼女たちを戦力と認める者は同胞の中にも殆どいなかった。

確かに自分たちの身を守ることで精一杯だったこともある。
が、同時に必要以上の戦いを裕子がさせなかったことが大きい。
 
 今日はそれもどうだか、わからへんで。
 
ラウマの無数の赤いパラシュートは血の虹のように
帯状に地表に流れ落ちてきつつあった。
 
 またたくさん死ぬなぁ。
 
そう思うと燃え上がった激情にわずかな陰がさした。
 
 
 
「裕ちゃん、これ!」
大きく目を見開いた圭がアサルトライフルを裕子に投げてよこした。
潤滑油に黒く汚れた頬を震わせて、必死の形相だった。
「あたしはチビ2人守るよ! あんたどうせ行くんでしょ?」
「ならチビたち 頼むわ」
渡されたアサルトライフルのハンドガードを握り締めると、
気化した掌の汗が柔らかい曇りを作って消えた。
 
FA-MAS
裕子とは長い付き合いだ。
 
 また手伝ってもらうで。
 
彼女らが使っている武器火器の類いは
そのほとんどがジャミングを起こしたりして放棄された侵略軍のものだった。
それを圭が修理して使えるようにする。
時にはそれをカスタマイズして性能や操作性をあげることもあった。
 
 圭は天才や。
 
裕子は常日ごろから圭の才能を高く評価し、同時に絶大な信頼を寄せていた。
圭の手にかかったものは自分で操作を誤らない限り、ほとんどジャムがなかった。
裕子が愛用しているFA-MASも圭が直したものだった。
もう何回オーバーホールしたかわからないくらい、それは長い時間を裕子と共にすごしてきた。
 
 あたしはね、こいつらをいじるのが好きなんだ。
 
圭は口癖のように言っていた。
 
 言ってみれば子供みたいなもんだよ。
 その上子供よりも手がかからないし。
 ここには十分な食料はないけど、
 火薬ならどこかのバカどもがいくらでも転がしていくからね。
 
その圭はアイとノノの二人を連れて、地下壕に入っていった。
小さな二人でさえ、こういった状況にはとっくに慣れていたが、
幼い顔に浮かぶ不安の色は隠せなかった。
 
 ひとみはどこにおるんや。
 
裕子はすばやく辺りを見回した。
「ひとみ、どこにおるん!」
塹壕に仕立てた家の窓の幕間からひとみが顔を出した。
「来いっ!」
ひとみは黙ったまま幕の向こうに消えた。
裕子は彼女が自分の後をついて来るだろうと判断し、
集落の東の入り口にかかる橋に向かった。
 
 
 
だが、その時ばかりはさすがの裕子も動揺していた。
裕子のグループの主力は御山に偵察に行ったまま帰っていない。
ミドルレンジの西の端にあるこの町を見下ろす御山を占拠されれば
市街地は24時間、迫撃砲に悩まされることになる。
 
かと言って戦略的にあまりにも弱いこの町を撤退すれば、
ただでさえ危いバランスで防衛線を張っているミドルレンジは
途端に戦線を失うことになるだろう。
国境付近以外いは荒野に近い平原が広がっているだけのこの国は、
民族を守る術を持たずに壊滅する。
なし崩し的に侵攻されることは明白だった。
 
この町は他国からのミドルレンジの入り口であると共に、
もっとも食料に恵まれた経済区域であり、同時に最前にして最後の防衛拠点でもあった。
 
だからこそ裕子の娘たちは危険を承知で御山に向かったのだ。
単純な作戦に引っ掛かった自分の判断が腹立たしかった。
 
 くそっ。
 
町の多くの部隊が残っているとはいえ、彼らは自分たちの仲間がいないこと、
そして侵攻してくる部隊がラウマだったことで精神的なバランスを崩しつつあった。
 
裕子は自分では決して望まなかったにも関わらず、優秀な戦士となっていた。
そのことだけはミドルレンジの多くの部隊が否定していなかった。
 
裕子が駆け抜けたあと、道沿いの家々の扉がバタバタとあわただしく閉ざされていった。
FA-MASを胸に担いで東の橋に駆けていく裕子の様子は鬼気迫っていた。
それはあきらかに尋常な様子ではなかった。
 
 レカン、か。やばい。
 
 
 
落下してくるパラシュートの数を、裕子は100と読んだ。
ラウマの部隊は着地とともに散開して、
鱗のように何重にも陣を重ねている町の主力部隊の真ん中に降りてくるつもりだろう。
主に国境のある西を守っている町の精鋭と呼ばれる部隊は、
完全に翻弄されて対応を遅らせている。
 
多分西のレカンの橋にたどりつくのは自分を含めて20人程度だろう、と
裕子は絶望的な数を冷静に計算した。
員数だけではなく、弾薬も足りないことは明白だった。
 
小さく舌打ちをしながら、うっすらと浮かび上がってきた予感のうちに死の匂いをかぎとると
裕子の表情は、さらに険しく、激しい怒りに満たされていった。
 
橋にたどりつくまで何人か知っている人間の横を駆け抜けた。
彼らは急場仕立ての遮蔽板を作って、その背後から銃口を突き出したまま硬直しているようだった。
みな一様に怯えに苛まれながら、それと闘っている。
だが彼らはその場所を動かないだろう。
自分が行けばいい、と裕子はさらに敵に向かって走り続けた。
 
橋にいちばん近いトーチカにたどりつくと、半分地下に埋まっている入り口から身体をねじ入れ、
中の木の梯子を使って上層に登った。
FA-MASのセーフティを解除し初弾をチェンバーに装填して構える。
怒りと動揺で珍しく息が乱れ、身体の弾みを抑えることができない。
 
だが平原の向こうから赤いラウマ特殊部隊の兵装がわらわらと近づいてくる。
 
 100…、いや150か。
 
フルオートからセミオートに切り替える。
唯一この状況でミドルレンジに有利に働くのは
ラウマの部隊が町へ侵攻するために、
このレカンの橋を渡らなければならないということだった。
橋は幅が狭く大人数が一気に渡ることができない。
 
 無駄な弾の消費を抑えんと。
 
トーチカといっても名ばかりのこの陣地には一切弾薬類はなかった。
すべて西の陣地にまわされている。
手持ちのマガジンも十分というには程遠い。
 
あとはミドルレンジのより奥深く、
もっと東にある集落から援軍が来ることを願うばかりだった。
そうすれば図式的には挟み撃ちする格好となる。
 
だがその時間がない。
それ以上に、兵士がいない。
主力はみんなこの町にいる。
どんなにそれが効率の悪いことであっても、
人口そのものが少ないミドルレンジでは仕方のないことだった。
 
「来る」