陽炎の記 5

午前のわずかな時間にしか吹かない風が巻き起こって砂を舞い上げる。
 
この地は緑に恵まれた地だったが、
多くの場所が爆撃の後遺症で癒されない傷口を開けたままになっていた。
そこから黄色く乾燥した砂があふれ、砂漠のような砂嵐がよく起きた。
いくら雨が降っても、そこだけはすぐに乾ききり、草が生えるまでに長い時間がかかった。
 
町の老人たちは、緑の平原に黄色い穴が次々に口を開けるのを目の当たりにして
「また墓が増えた」と呟いた。
それは何かとても苦々しい風景にも見えた。
 
砂埃の向こうからラウマの軍靴の音が響いてきた。
まだ身体は激しい息遣いに揺れている。
 
自分がそれまで感じたことのない恐怖に襲われていることを、裕子ははっきりと認識した。
 
一旦射撃体勢を解き、いつもは使うことのないスコープを装着しようとしたが、
どうしてもうまく装着できなかった。
その間にもラウマの足音が近づいてくる。
 
「ちっ」と舌打ちをすると、裕子はスコープの装着をあきらめて
再びトーチカの銃窓から銃口を出し、2度大きく深呼吸をしてチークピースに頬を当てた。
少しずつ息の乱れが治まって来る。
申し訳程度の簡易サイトで、近づいてくるラウマの特殊部隊の先頭に照準をあわせた。
 
 まだや、まだ。
 
ヤツらがレカンの橋に差し掛かるまで引き金をひいてはいけない。
必ず特殊な防弾アーマーを着込んでいるはずだったし、
それ以前に裕子はスナイピングがあまり得意ではなった。
 
 
 
だが相手は見る見るうちに橋のたもとまでたどりついていた。
こちらの数は多くて20人。
相手は少なく見て150人。
こちらは銃器の扱いさえ知らない女子供を含むレジスタンス。
相手は訓練を施された精鋭。
 
 死ぬかもしれん。
  
無数に近い数だ。大量虐殺兵器を使わない代わりに、
連中はいつも物量にモノをいわせて執拗に絡んでくる。 
 
 でもタダでは死なんわ。
 
橋の長さは150メートル。
わざとレカン河の川幅の長いところを選んで橋がかけられている。
単純に防御上の理由からだ。
両岸にはそれぞれトーチカが設けられている。
だが向こう岸のトーチカは無人だったらしく、どうやら占拠された様子だった。
 
そうして何十秒かの後、
わずかに吹きつける北風がまた砂を舞い上げた瞬間、
ラウマ最初の分隊が橋を渡り始めた。
10、12、15人。
2分隊。2×2フォーメーションを斜めに連鎖させたラウマお馴染みの隊形で揺らぎなく走ってくる。
 
 15人。殺すんじゃない。怪我させる。
 
最初の15人がレカンの橋を半分ほど渡ったところで
裕子のFA-MASが口火を切った。
乾いた単発の銃声が、一定の拍子で空に叫び声を上げた。
4人が倒れる。
11人。
 
回避行動を微細に繰り返しながらラウマ兵も突撃掃射を始めた。
裕子のいるトーチカの銃窓に正確に着弾してはコンクリート片をまき散らす。
 
だが裕子は冷静に狙いをつけては1発ずつ射撃した。
9人。
8人。
 
第1陣を5人までに減らしたとき、そのすぐ後ろには既に20人ばかりの2陣が追いついていた。
 
裕子の内部で怒りと恐怖が無視できないほど大きくなっていた。
目の前10メートルほどの距離に近づいた小柄なレッドリンクのヘルメットを撃ち抜いたとき、
中空に霧のような血煙が舞いあがり、裕子は自分がラウマを殺していることに気づいた。
 
 24。
 
 28。
 
 35。
 
 …50。
 
橋の上にはもう50人以上のラウマ特殊部隊であふれかえっていた。
同時に裕子の視界からは外れたところで、
小型の水中推進装置を手に簡易アクアラングを背負った別働隊が既に上陸を終えて
付近のトーチカを次々に陥していっていた。
戦力的に低い場所から次々に悲鳴が上がり、
一つずつミドルレンジの迎撃拠点を破壊したラウマ軍は
裕子のいる場所を左右から包囲しはじめた。
 
彼女は戦況が絶望的なのを直感的に悟った。
最早照準を定めている時間を得ることができなくなり、
裕子の親指は反射的にセレクトレバーを弾くとフルオートで手当たり次第に掃射した。
 
あっという間にマガジンが空になる。
だがラウマはゆっくりとマガジンを交換する時間さえ、おいそれと与えてくれそうにもなかった。
トーチカの外壁を削るような耳障りな摩擦音が聞こえたかと思うと
青空と壁の間に朱色の手袋が姿を現し、
それに続いて深いヘルメットを被ったレッドリンクの顔が瞬間裕子を見据えた。
 
何とかマガジンを交換し終えた裕子は即座に銃窓からFA-MASを抜いて仰向けになると、
銃を構えなおそうとしているレッドリンクの顔面を下から撃った。
それは声もなくトーチカの壁からもんどりうって落ちていったが、
血の幕の向こうから息つく暇もなく何本もの赤いグローブが朝焼けの空を乱すように伸びてきた。
 
 
 
それは唐突にやってきた。
 
そのときはじめて裕子の中から一切の恐怖の感情が消えた。
 
世界の時間の流れがはっきりと緩やかに細分化され、
裕子は自分の終末を別段否定もせずに受け入れる。
 
 明日香。
 
心の奥から封じていたはずの記憶が迸り、生き生きとした像に結ばれて眼前に甦る。
 
 明日香。いまアタシも行く。
 
FA-MASから弾丸が弾ける音も、
レッドリンクの怒号も引き金を引く感覚も、意識の中から押し出された。
停止しかけた時間の流れの中で、仰臥の体勢で、
トーチカによじ登ってくるレッドリンクを機械仕掛けのように正確に射撃しながら、
微笑をたたえて振り返った明日香の最後の姿を青くて赤い空の向こうに見透かしていた。
 
 アンタを止めることができんかった。許してな。明日香。