陽炎の記2

パンゲア大陸の東端にミドルレンジと呼ばれる地域がある。
 
ひとみが生まれたのは、世界が疲れきって崩壊する直前だった。
ミドルレンジは国とも呼べない小さな地域だった。
気候は温暖で、適量の降雨があり、豊かな四季があった。
人々は決まった家を持たず、泉の周りに集った家族同士で助け合いながら生活していた。
 
彼ら民族の由来を知る者は世界のどこにもいなかった。
 
周辺の国々は競ってこのミドルレンジを我が物にしようと侵攻と諜報を繰り返し、
元からここに根づいていた人々はそのたびに傷つき、
様々な国籍に組み込まれては解放された。
 
肥沃な土地のはるか地中深くに無限とも思える化石燃料資源があると予測されたからだ。
けれどもそれは一人の科学者の予見に基づいた推測でしかなかった。
だが化石燃料の枯渇に怯えきった世界は争うようにこの地の覇権を求めた。
 
多くの戦いが繰り返され多くの犠牲者が出た。
だがこの地に古くから住んでいる民は、死にゆく同胞を看取りながらも
決してそこから去ろうとはしなかった。
他に行くべき地がなかったからだ。
 
だが彼らは無抵抗だったわけではなかった。
 
戦争には必ず略奪と蹂躙が伴う。
 
やがて彼らの中から自分たちを守るために武器を持つ者が現れた。
はじめに一族を守る男が武器を持った。
だが度々繰り返される戦いによって男の数が少なくなると
今度は母親が、落とされたまま持ち主の現れない武器を拾い上げた。
やがて母親もいなくなると、親を失った子供たちが砂埃まみれの銃に小さな手をのばした。
 
幾許かの年月をかけて、それが繰り返された。
星は死にかけていた。
 
 
 
 
ひとみは何時から自分が武器を手にしていたのかを知らない。
彼女には家族の思い出は何ひとつ残されておらず、
ただ火薬と潤滑油の匂いだけが僅かな幼少の頃の記憶だった。
 
そのまま親の顔も兄弟の顔も、自分の名前も知らない時代がしばらく続いたはずだ。
記憶のない闇の時代に自分がどうやって生きてきたのか、彼女は知らない。
 
ひとみの最初の記憶は一人の少女が空の薬莢を自分にくれた映像だった。
煤と埃にまみれた少女は、しかし透き通るように白い肌をしていた。
「アンタ、ヨシザワ言うんか。名前はわかるか?」
ひとみが握り締めていたハンカチを広げたその少女は、ほつれかかった糸の痕跡を読み取って
呆然としていた彼女にそう問いかけた。
「…」
「これ光ってて綺麗やろ。アンタにやるわ」
空になった真鍮製の薬莢。
「名前はわからへんの?」
「…」
「目のおっきい子やな、ひとみって呼んでええか?」
 
 あたしはその時肯いたのだろうか。
 
成長してからその頃のことをふと思い出すと、ひとみは決まってそう自分に問いかけた。
 
 裕ちゃんも覚えていないって言う。
 
それはしかたのないことだ、と、ひとみはよく思った。
 
裕子・ナカザワは彼女が14歳の時、ラウマ軍の遠征に巻き込まれて母親を失くして以来、
自分と同じような境遇の子供と共に集団生活をはじめた。
 
彼女はひとみのような戦争孤児を引き取って育てていた。
裕子もまた父親の顔を知らず、母親の記憶は強い死別の衝撃のためにかすれていた。
 
彼女たちの間では時間が所々で凍りつき、ひび割れていた。
だが壊れた記憶のかけらを追ってみても、
いい結果などもたらされないことを彼女たちは知っていた。
 
 
 
 
彼女たちの生活は恵まれていなかったが、それはどこの家族も同じだった。
人々は助け合うことでようやく生きていたが、
大地は彼らを祝福するかのように、この地に恵みを与えた。
水は豊かで、果実は豊富な実りをもたらし、
どんな戦禍の後でも奇跡のように緑が息を吹き返した。
 
この地を棲家としていた彼らにとって、ここを去ることは死ぬことと一緒だった。
世界の多くは既に荒廃しきり、彼らのような難民には迫害しか与えられなかった。
だからこそ、彼らはこの地に居続けた。
だからこそ、彼らは武器を取った。
ミドルレンジと家族と自分を守るために、武器を取った。
手にした瞬間、もう後戻りできなくなることをはっきりと自覚しながら。
 
しばらくの時がたち、集団の何人かが遠征してきた国の兵士に殺されると
裕子もまた自分たちを守ることに決めた。
 
母親代わりとなった裕子は「娘」たちにも武器を持つことを教えた。
戦争において女はどんなに幼くても戦利品として蹂躙された。
だからこそ裕子はある時期以降からは女児ばかりを引き取り、育て、自分を守ることを教えた。
 
はじまりの5人、と裕子が呼ぶ5人がこの奇妙な集団の最初のメンバーだったという。
だがひとみはこの5人すべてを知っているわけではなかった。
いなくなった何人かの行方が裕子の口から話されることはなかったし、
わざわざ聞こうともしなかった。