混沌の章

スフィア5thを観戦に有明へ。

以下は試合の感想でもレポでもなく。




岩田女史の客死を受け、喪章を巻いて試合を観た。JBのメンバーは濃い青地に目立たないながらも黒いリボンを肩につけていた。当日、観客を含めた会場全体で黙祷を捧げる機会が設けられた。25歳。ハローのメンバーにも同い年がいる。安倍なつみ飯田圭織といった――。短いながらも昔のVTRが流されて、ふと何だかとても懐かしいような感覚に襲われた。



さて、試合である。試合には結果が伴う。その結果はもう周知の通りである。CSという限られた枠ではあるが生中継もされて、多くの人がそれを観たのではないか。

分りきった流れだったといえばそれまでで、何も殊更ここに書くようなことでもない。個人的な意見を言わせてもらえば、「悪い流れの中にいる」ということだけが事実であって、ガッタスが下手になったとか他チームが上手くなったとかの言葉が繰り返される様子には、ヒステリックな呪詛で溢れかえった喧騒の中にいるかのような印象を受ける。

何でもかんでも誰かに責任を押し付けてどうにか納得したいというその姿勢は、ある意味子供じみた行為のように思えてしまう。ガッタスが昨日負けた。物の見事に負けた。それは紛れようもない事実だ。でもかつてガッタスにありえないほどの感動をもらったことも、自分にとっては事実なのである。

だからこそ自分はガッタスが負けていく様を瞬きもせずに見ていた。価値なんてものは誰かが後からつけたものだ。ガッタスはそういった価値付け以前から、確かにそこにあったし、今まで続いてきたのだ。昨今のもてはやされ方からは想像もつかないが、誰一人として彼女たちを信じていない時代があったのだ。

思うに、敗北に理由を見つけるのは至極簡単だ。他のチームが敗退したり優勝したりした理由を羅列することも同様に簡単で、そして等しく意味がない。ガッタスがそこにいてプレーをしている。全力でプレーをしている。もし手を抜いているように見えたのなら、それは負けたこと以上に悔やまれることだと思う。

勿論負けて嬉しいはずもない。観戦とは自分の思い入れのある誰かやチームが勝つことを望んで観にいくものだ。でも敗退後のこのある種のヒステリーは、人格的な未成熟を想起させるの同時に、もしかしたらこれこそが最終の(最後の、ではない)希望なのかもしれない、とも思った。スポーツを観る時の当たり前の反応でもあるからこそ。



ガッタスである以前にタレントとして現し世に存在している彼女たちの前には、今2つの道がのびている。1本はガッタスへと続き、ガッタスを超えてさらに向こうにのびていく道。もう1本は、日本でも比類なきアイドルとして歌や舞台などを経て、霞がかった遥か遠くへとのびていく道。

その2本の道のあいだには、道は存在していない。

これは比喩だ。だが、いつかの未来のことを言っているのではない。彼女たちにとっては今日明日の選択なのだ。どちらに行くとしても彼女たち個人がひとりひとり選択するしかない重大な選択である。

いつか来る終わり。いつか来る別れ。20歳そこそこの小娘たちが背負っているものの重さは、門外漢の手前には想像することもできない。



でも。でも、だ。

ガッタスの連中ってのは、やっぱりちょっとイカレている。そう思うだろう? 間違いない。だからアイツらは2本の道のあいだの潅木の茂みに体ごとつっこんで、鋭い棘や葉に血まみれになりながら、新しい道を作ろうとする気がしている。

なぜならここまで来た道もまた、彼女たちが切り拓いた道だから。

後から大人達が大挙してやってきて道を踏み固め、アスファルトを打ち、車線も増やして、今でこそまるで最初からそこにあったような立派な道になっているけれども、モーニング娘。一の問題児がわずか数人の仲間とともに無謀にもブッシュへ飛び込んだからこそ、スフィアが出来上がった。

負けることは悔しい。でもあいつらは言い訳はしない。結果から逃げたりしない。結果だけで語られることの意味(貴重さ、そして残酷さ)を知っているからだ。清濁併せ呑んでこれからもガッタスは歩き続ける。何処まで行けるかは、存分にやりきって膝をついたとき、そこから振り返ってみればいい。



どこの誰がどんなに声高に叫んでみたところで、吉澤ひとみ率いるガッタスが、最初の一歩を踏み出したことの意義は誰にも否定できない。だから自分はこれからもガッタスが続いていく限り、精一杯応援する。批判は他の誰かにおまかせするとしよう。自分にとっては勝つのもガッタス。負けるのもガッタス。勝ってすっきりと祝杯をあげ、負けて思い切り歯噛みする。自分の内側にある感情を認めて、なおそれに流されず囚われず。





さあさあ、次は11月30日。もう最終戦ではないか。