カルタゴの址

(敢えてこう表現するが)旧モーニング娘。にとって大きなニュースが2つあった。



色々な意見はあると思うが、2つともあまりよいニュースではない、と感じている。うち1つは結果論であり、他方はそうではないという違いこそあるが、今回の場合は、現モーニング娘。のイメージが巷間に浸透していないことが、逆に良かったのかもしれない。


生きていれば、様々に失敗する。芸能、それもアイドルという“虚業”にとって、失敗からもたらされるイメージは時に致命的だ。そういう意味では、旧モーニング娘。をある意味において捨て去り、ダンスも変え、ユニット名も変えるという荒業は、危機管理的意味合いでは有効なのかもしれない。歴史の断続性をとるか、新生のイメージをとるか。



矢口真里の復帰は興味深く見たが、多くの人が言うように、肩すかしでもあった。個人的には、真相はどうでもいい。もっとも気になるのは「プライベートなことは話さないとお互いに約束したことなので」という部分。お互いに約束したのではなくて、中村側に約束させたというのが真相だろう。だったら、そう言えばいいのだ。恥ずかしくて話せません、と。


普通の人間なら、それで何があったかを感知するし、その場合それ以上言わせるのは下世話でしかない。お互いの約束などという都合のいいシナリオで防御しても、それは姑息ととられるだけだ。テレビに復帰したことは良いニュースだったが、彼女にとってプラスになったかと言えば、どうにもそうとは思えない。


彼女の場合は結果論だ。だから、問題は次にどう出てくるか、だろう。いずれにしても彼女はルビコンを渡った。




さらに加護亜依である。


いうなれば「詰み」だ。出口が見えない。あのように報道された限り、イメージを払しょくすることは難しい。なぜなら、これは本人の問題ではなく、家族の問題だからだ。本人の問題であれば、自身がしっかりと自覚し反省し、真摯に仕事と向き合っていけばいい。だが、家族は所詮本人ではなく違う人間なのだ。加護がいくら反省し謝罪しても、夫の姿は見えてこないし、これからも出てこないだろう。しかも普通の犯罪ではなく、いわゆる組織犯罪の疑いをかけられている現状では、身動きがとれない。


ほんの少しのボタンの掛け違いから、ここまで来てしまう。しかも後戻りはできない。




人生を比べることはできない。なぜなら他人の人生を送ることはできないからだ。だから、何が幸せであって何がそうではないのかは、その人以外にはわからない。


かつて彼女たちがモーニング娘。を卒業もしくは脱退する際に、自分は、全てのメンバーのその後の人生の幸福を祈った。今でもそうだ。道重さゆみにはもっとも大きな幸いが待っていることを心より願っている。


だが、それからの人生は長く、その長い時間の分だけ悩みも苦しみも生じる。「元モーニング娘。」という肩書は、時に重く邪魔に思えるだろう。歴代メンバーの中の誰ひとりとして、その肩書きを別のもので上書きすることができた者はいない。無理をすれば、蹉跌がうまれる。


今回の加護亜依の件も、そんな泥中ののたうちに見えるのは、自分だけではないだろう。加護は上書きしようとし、矢口は逆にそれにすがろうとしている。


他人には想像できない困難な道が、別々の方向にのびている。2人に限ったことではなく、全員の前に、茨の道がのびている。それは人生そのものであり、その道を切り拓いていこうとする限り、自分は彼女たちのことを見つめていくだろう。幸いあれと祈りを込めつつ。